駐車場から道路に出た美枝子は背後を勢いよく振り返った。ボストンバッグによって働いた遠心力のせいで転びそうになったが、右足を大きく横に出して耐えた。
目の前にある洋風の二階建て住宅。二年前に美枝子と広志がローンを組んで建てた。
「家だけど、もう家じゃないんだ……変なの」
感慨深いってわけでもないが、それなりに思うところはあった。こんなことになるなら建てるんじゃなかった。アパート暮らしで我慢しておくべきだった。それもこれもすべて広志が悪いんだ、とか。
ドアの開く音。広志は慌てていたようで玄関から出てすぐつんのめりそうになったが、美枝子の姿を認めるとゆっくりとした足取りで近づいてきた。家なんて見ている場合ではなかった。美枝子は舌打ちしたくなった。さっさと立ち去るべきだった。
「忘れもの」
広志はショルダーバッグを美枝子に渡した。ボストンバッグを持って出たせいで忘れていたのだ。我ながらそそっかしい。
礼を言うべきだろうが美枝子はうなずくにとどめた。今更弱みを見せたくなかったし礼を言いたくもなかった。
「……それじゃあ」
と美枝子が言うと、それじゃあ、と広志も同じ調子で返した。
ほとんど待つことなく電車はホームにやってきた。座席は空いていて、親子連れが一組、年金暮らしをしていそうな男が一人乗っているだけだ。
美枝子は出入り口に近いところに座ると、ボストンバッグを足下に、ショルダーバッグを膝上に置いた。そのとき気づいたのだがショルダーバッグのファスナーは開いていた。
やはり自分はそそっかしい人間のようだ。それとも何かまだあの家から持ち出すべきものがあってそれを入れる途中だったのか。
少し考えてみたが心当たりはなかった。思い出せないだけかもしれない。そそっかしい上に、物覚えが悪いのだ。さらに付け加えるとがさつで思いやりにも欠けるのだとか。自分に甘く他人に厳しい。すべての人間にとっての反面教師……。
広志との間で繰り返された夫婦げんかによって、自分に対する客観的な悪口というやつを美枝子はそらで暗唱できるようになっていた。もちろん今は頭の中で再生しただけだが、記憶力の悪い自分がそんなものを覚えてしまっているのが忌々しかった。
離婚して良かったのだ。
ボストンバッグをにらみつけて、大きく一人うなずいた。
なるべくしてなったのだ。いい意味で。
ファスナーを閉めようとしたとき、財布とスマホの間に封筒が見えた。するべきではないと思いながらも手に取ってしまった。今更と思うのに、その欲求にあらがうことは難しかった。
封をしているシールを剥がし、便せんを抜き取り読み始めると、すぐに引き込まれた。
出だしの文章、少し笑った。
そこから先は腹を立てることの連続だった。
それなのに。
最後の文章を読み終えたときには声を上げて泣いていた。
手の甲で拭っても後から後から涙はあふれてきた。
手紙には相手への感謝があったし、愛さえ読み取れた。
ママーと子どもが美枝子を指さし、泣いてるよ、と不思議そうに母親へ報告した。まだ小学校に上がる前のようだ。大人が泣くのを見るのは初めてなのかもしれない。大人だって泣くのだ。そしてそれは恥ずかしいことじゃない。少なくとも人生のうち、そういう瞬間が何回かあっていいはずだ。
視界を涙でかすませたままにらみつけてやると、表情はよくわからなかったが子どもは母親にしがみついた。
平屋建ての実家は瓦屋根の木造で、玄関は広い。その分を部屋に回せば良かったのに、と美枝子が思うぐらいには広かった。
美枝子はボストンバッグを土間に置くと、出迎えた母に手紙を渡して、自分は板張りの玄関に座りブーツを脱ぎ始めた。
「あんた、これ封が開いてるよ?」
「あー、来る途中で読んだ」
「私宛てでしょ? お母さんへって書いてある」
「いやー、我ながらいい出来だった。読んだら泣いちゃうよお母さん。わたしは泣いたね。それで泣かなかったら人じゃないよ」
「……あんた、昔から作文だけはうまかったからね」
母親はそう言うと、深々と溜息をついた。
↑心えぐられる傑作です。
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