教室の後ろから三列目、廊下側から四列目の席に座り、東雲千景は黒板を見ていた。机には学校指定の鞄がかかっている。中は教科書とノートでぱんぱんだ。
他の席には誰も座っていなくて、教室に千景一人きり。
春休みなので。
学校に来ている者も体育館やグラウンド、部室などにいる。バスケ部員の千景も本来なら体育館でバスケをやっているはずだった。
黒板を見ながら、やっぱりよく見えないな、と思った。入学してこの教室に来たばかりの時は、よく見えたのに。
今は三月だった。
加倉井祐介は真新しい制服に身を包んでいた。
校門から堂々と高校内に入っていった。
受験に合格し、入学手続きもした。でも、入学式は済ませていないし、自分の教室もまだ知らない。
下駄箱を入ってすぐのところにある校舎案内図を見た。一年生の教室は三階であることがわかった。
階段を昇って三階まで行き、端から順番に一年生の教室を見て回った。そのどれかが祐介のクラスになるはずだった。憧れの学校だった。一生懸命勉強して入ったのだ。
何かの気配を感じて黒板から、廊下に目をやった。開いたドアの先から人影が現れて、立ち止まった。少年だった。目が合った。
「あの、すいません」
少年は言った。
「教室に人がいるなんて知らなかったもんで……」
何かびくびくしている。同級生ではないようだし、上級生でもないようだ。当てずっぽうで言ってみることにした。
「もしかして新入生?」
「……すいません」
「いいよ、こっちきなよ。見学しに来たの?」
「……はい」
少年は千景の方に歩いてきた。別に無視したっていいのに、と微笑ましく思った。子どもな素直さだ。
「先輩は、二年生ですか?」
「……うん」
千景はうなずいてから、続けた。
「でも、この学校の二年生ではない」
「え?」
少年は動揺したようだ。そのうぶな反応も好感が持てた。からかってみたくなったが、正直に話すことにした。
「引っ越しするの。だから、他の学校に編入する」
「へー、そうなんですね」
「だから、この鞄も、中に入っている教科書もノートも、ここに置いていくつもり」
「もったいない」
「だから、あなたにあげる」
「……いいんですか?」
「いいのよ。もらってもしょうがないと思うけど」
「いや、ノートはありがたいですっ」
千景は新入生だという少年を眺めた。
高校での生活は、きっと楽しいものになるだろう。
少しは先輩らしいことをしてあげよう。
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「化学の北山先生には気をつけた方がいいよ。嫌味なことばっかり言ってくるから」
「わかりました」
千景は教師について、一通りのことを少年に説明し終えた。
「ところで、この鞄についてるキーホルダーももらっちゃっていいんですか?」
少年は鞄を持ち上げて、千景に言った。さすがに重そうだ。
「いいよ、あげる」
そのキーホルダーは夏休みに友人たちとお揃いで買ったものだった。
友人の一人が言っていた。仲間の証、と。
友人たちはそのキーホルダーをつけた鞄を持って登校してくる少年を見つけたらどう思うだろうか?
きっとその反応は見物だろう。
見られないのが残念だ。
やっぱり、黒板と同様少年の姿もぼんやりしていた。
千景は眼鏡ケースから眼鏡を出して、それをかけた。少年の顔がはっきりと見えた。きらきらと輝いていた。人間が光るわけがない、度が合っていないのかもしれない、と思って、黒板に目をやったら、はっきりと見えた。
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千景は立ち上がって、窓際まで歩いた。窓からはグラウンドの様子がよく見えた。サッカー部員たちがボールを蹴りながら走っていた。
いつの間にか少年も千景の隣に並んで、グラウンドを見ていた。千景は少年を見た。同じくらいの身長だ。自分は打ち止めだが、少年はこれから伸びるだろう。
「ねえ、眼鏡しなよ」
千景は言った。
「え、いいですよ、だって……」
千景は眼鏡を外すと、少年に渡した。少年は受け取り、眼鏡をかけた。そして、グラウンドを見た。
「ぼんやりしてる」
「そうでしょ?」
千景は言った。そして、さもおかしそうに笑った。
「学校、楽しいといいね」
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