鬼熊俊多ミステリ研究所

鬼熊俊多のブログ。『名探偵コナツ』連載中!

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彼女のトマトジュース


 洗面所の鏡の中、寝ぼけ眼の女の子がいた。
 顔を洗ったあとボトルから手に取った化粧水をつけた。一回、乾いたらもう一回、さらにもう一回と続けて計三回。その頃には目も冴えてきた。
 笑ってみた。
 うん、すごい美人。
 私は制服に着替えて自宅から出た。
 冬の夜は早い。
 外は真っ暗で、せっかくの白いセーラー服も闇に沈みがちで全然さわやかじゃないけど、夜間学校、いわゆる定時制高校に通っているので出かけるのはいつもこの時間になる。完全に昼夜逆転の生活だ。
 校門をくぐると、見かけたことのない人影があって、通り過ぎるときその顔を見たら、やっぱり知らない男の子だった。
 すごい美少年、年齢は私より下だろう。女の子なら絶対好きになるって感じの子だ。私だって絶対に付き合いたいって思った。絶対お近づきにならないといけない。絶対が三回も出た。それぐらい素敵ってこと。
「こんばんは。ねえ、見ない顔だよね。新しくここに通うことになったの? いくつ?」 その美少年は私なんか眼中にないって態度でまっすぐ前を向いたまま歩みを止めなかった。こちらをチラリとさえ見ることもせずにだよ。ちょっと待ってよそれはないんじゃない。
「ねえ、なんで無視するの?」
「怪しげだから」
「どこが?」
「二十歳過ぎてるのにセーラー服を着てる」
「な、なんでわかったの?」
「見ればわかる」
「ない、それはない。わたし完璧に若いもん。すっぴんでこれだよ?」
「しかも男なのに、女みたいなしゃべり方だ」
「な、なんでわかったの?」
「声を聞けばわかる」
「それもないない。だって完璧に女の子の声だもん。美しいソプラノじゃん」
 少年は足を止めて、じっと私を見た。澄んだ黒い瞳、まっすぐに見つめられて、心臓がドキドキしてきた。何の不純物も映していないビー玉のような不思議な目だ。
 その瞳に吸い込まれてしまいそう。何か大事なものが欠落しているようにも感じられたけど、真空であるがゆえに何もかも周囲にあるものを吸い込まずにはいられないってやつ? 何か言わなきゃ危険だって思って、とりあえず言った。
「わかるなんて普通じゃないよ」
 言ってから後悔した。
 普通じゃないって言葉、私が一番嫌いな言葉だ。普通ってつまらないと思うけど、普通じゃないって、おまえはだめだって却下する言葉、排除する言葉、仲間はずれにする言葉。でも、私はある意味みんなと一緒でいたくて、貼られたくないレッテルで――
「そうだな。俺は普通じゃないから」
 すごい自然な言い方だけど、胸がずきんとしたっていうか痛んだっていうか、それはその子の気持ちがわかるってことじゃなくて、きっと私の内面をぴかーんって鏡みたいに反射されたからって感じ。わかるかな? それで、思い込みかもしれないけど悪いことしたなって思ったんだ。向こうは全然気にしてない感じだったけど。
 その日から私は毎日学校のある日はハルキに声をかけた。ハルキっていうのは美少年の名前なんだけど、私が心を許してるのに向こうは相変わらず素っ気ない態度。それでもこりずに声をかけ続けたんだ。帰りも一緒。それは一緒に登校するより簡単だった。だって帰りの時間を合わせればいいんだから。


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 いろいろ話したよ。好きな食べ物は特になし。嫌いな食べ物はにんにく。なんで夜間学校に通ってるのかって質問に対しては、日差しが苦手だからだって。おいおい、お姉さん突っ込んじゃうよ。
「ハルキって吸血鬼みたい」
「誰にも言うなよ」
 ハルキはそう言ってから、トマトジュースを飲み干すと、空き缶を自販機横のゴミ箱に捨てた。
 これは吸血鬼ごっこだ。漫才とかでよくあるじゃない? もし自分が○○だったらって仮定で話を進めていくこと。それだって、ピーンときたね。
「言ったらどうするの?」
「俺のことを誰も知らない町に引っ越すだけさ」
「へー追っ手を逃れて?」
「その必要はない。あんたがばらす前にその血をたっぷり吸い尽くしてやるからな。あんたは死ぬんだ」
「……は、ハルキ君ってそういう冗談も言うんだ。意外な一面。お茶目-。わ、わたしたちもう仲良しだね」
 びびっている私の演技が迫真だったからか、ハルキがちょっと笑った。ちょっとだよ。三メートルぐらい離れた人が見たらそんなふうに見えなかったかもしれない。私はすぐ隣いたからさ、ちゃんとそう見えた。
 とにかくこうして私たちは打ち解けていった。
 そんなある日、ちょうどコンビニの前だった。私とハルキは並んで歩いていて例の如くって感じで私が一方的に話していてハルキの方はたまに機嫌がよかったからか話の内容がたまたまよっぽど興味のあることだったかでうなずいてくれたときのことだった。
 中学のとき、私のことを普通ではない特別な人間だと認めてくれた同級生、タヒロとばったり再会した。
 こいつはご丁寧にも私がいかに特殊でいかに希少な存在かをクラス中、学年中、学校中あるいは町中に広めてくれた男子だった。
 とてもいろいろお世話になっていて、それに対してどう報いていいかわからないぐらい、未だに。本当に数年ぶりなんだけど、ずっと会っていなかったのにその顔を覚えていて、そのくせ恐れ多くてその顔を見ていることができなくて私はうつむいてしまった。
「うーん、あれ-?」
 と言いながら足音が近づいてくる。ゆっくりと逃げ道を塞ぐように、獲物を追い詰めるように、いたぶるように。
「やっぱ、変態男女じゃん」
 私は顔を上げられない。頭に手を置かれる。ぐい、と抑えつけられて首に痛みが走った。気持ち悪っ、と言ってタヒロは手を離した。あー汚い汚いと言いながら手を振っている。 タヒロは昔からそうだった。昔から昔から、そう昔のことだと私は思い込もうとした。もう七年近く前のことで、それなのに心にこびりついて泣けるドラマを見たりストレッチをしてみたりおいしいものを食べてみたりしても全然洗い流せなくて、心の空気穴を塞がれてしまったみたいに時々タヒロとの思い出に襲われて窒息しそうになる。
 タヒロはハルキに絡んだ。
「なあ、あんた、こいつが男だって知ってんの?」
「知ってるけど」
「うわー、おまえも変態か」
 言わなきゃ。
「やめて」
 自分でも腹が立つくらいにか細いその声は、
「やめてだって、男のくせに。なあ、聞いたか?」
 下卑た声に弾き返されて粉々になった。
 タヒロがハルキの肩に手を置いた。ごく自然にその手をハルキは払いのけた。
「おい、どういうつもりだ。やんのか?」
 タヒロはヘラヘラしてるけど、すごく切れやすい。調子を合わせていれば機嫌がいいからクラスの子はみんなタヒロみたいな笑顔をその顔にくっつけて私を言葉なり暴力なりでスケープゴートにしたんだ。
 タヒロの伸ばした手、ハルキは身を引いてよけた。美しいハルキに触れることさえできないタヒロはポケットからナイフを出した。
 高校時代に人を刺して少年院に入っていたと聞いた。もし更生していれば今もナイフを持っているはずがない。
 決めたらタヒロに躊躇はない。私はそれをよく知っていた。人が傷つこうが死のうが気にしない。それがタヒロだ。
 だから足が前に出た。私。ハルキとタヒロの間にいた。


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 すっと冷たい感覚が脇腹にあって、直後、焼けるような痛みが走った。美しい自己犠牲。そんなふうに酔ったのは私だけ。刺した本人はそんな価値観も、それを理解する感性も持ち合わせてはいない。
「なに邪魔してんだよ!」
 タヒロは何度も何度も私の柔らかい部分をナイフで刺した。そのたびに血が流れてアスファルトに飛び散ってイメージの中にあった地獄のシーンに重なる。
 私を見下ろすハルキの顔にはショックも何もなく、いつもの無表情があった。ちょっとほっとした反面、残念な気持ちもあった。あーそうだよね。私が付きまとってただけだもんね。でも、付きまとわせてくれてありがとうって思った。
 これ以上私を刺してもおもしろくないと思ったのか、倒れてしまった私は刺しにくかったからなのか、タヒロがその標的をハルキに代えた。あまりの惨状に目を奪われていて反応が遅れたのかハルキはあっさり胸を刺された。
 でもその顔を痛みに歪めたりせず、端整なままの顔立ちで、ハルキがふっと腕を振った。その指先はちょうどタヒロに首筋に触れたように見えた。因果関係があったかどうかわからないけど、タヒロの首がその瞬間吹き飛んでアスファルトに転がった。周囲はより私のイメージする地獄に近づいた。
 ハルキの口元から見事な犬歯が覗いていた。人間にしては大きすぎるよね。目も赤く光ってるし。
 出血がひどすぎて脳に血液が回っていないせいなのか、逆に素直に理解できた。ハルキは人間じゃなくて、吸血鬼で、人をこんなふうに殺してしまった以上もうここにはいれなくてどこかに行ってしまうこと、よりはっきりしていたのはこのまま私は死んでしまうってこと。吸血鬼の存在を簡単に信じられるっていうのはやっぱり死期が近いからって気がする。
 自分の望みもはっきりした。これまで男の子を好きになったことなんてなかった。でも誰かに思いをすべてぶつけたいって欲望はあって、死にかけているせいでなし崩し的にやっとその相手に気づくことができた。会えなくなるって思ったらすごく怖くなった。
 すぐにでも自分から出て行ってしまいそうな魂をつかもうとでも思っているかのように宙に手が伸びている。体の動きと思考が連動していない。だけど心も体も死にたくないってすがっているのは同じだ。
「……このまま死んだら、会えなくなっちゃう」
 それは嫌だ。
 絶対に嫌。
 私は必死に大好きな人をその目に焼き付けようとする。ハルキは目の前にいた。ハルキのビー玉のような瞳をのぞき込む。
「死にたくないのか?」
 死にたくない。声が出ない。なんとか力を振り絞ってうなずいた。たぶんうなずけていたと思う。全身から力が抜けていて自分の感覚にまったく自信が持てないけど。最後まで、死の間際まで大好きな人を見続けていたい。でもまぶたにも力が入らなくなって目を閉じてしまう。ハルキの牙が首筋に食い込む感覚だけが心を慰めた。吸血鬼になれば死なずに済むだろうから。
 目を開けると、見慣れた天井。布団になじむ肌の感覚、家のベッドだ。死にかけたのは夢だったのかと思った。人を刺したタヒロがそう簡単に少年院から出てこれるはずがないし、吸血鬼なんて存在するはずがない。もしかしてハルキ自体が夢の中の登場人物だったのかもしれない。あんなに美しい男の子なんているはずがない。
 私はあくびをしながら洗面所に行って、鏡を見た。いつもの寝ぼけ眼の、あの子の姿がそこにはなかった。誰も映っていない。私が目の前に立っているのに!
 私の頭は吸血鬼の特徴について高速で検索した。
 ニンニクなど匂いが強いものが苦手。杭を心臓に打ち込むと死亡する。瞳が赤い。人の血を吸う。赤ワインや生肉などを血の代用品としている。鏡に映らない――映らない!
 血を吸われて私は吸血鬼になったのだ。
 鏡にいくら顔を近づけても姿が映ることはなく、手で触れても冷たくて、スマホの画面みたいにスクロールしてみたけど無駄だった。
 あの子はもういない。
 大好きって気づいた直後、ハルキの瞳に映るのを見たのが最後になった。

 


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