鬼熊俊多ミステリ研究所

鬼熊俊多のブログ。『名探偵コナツ』連載中!

MENU

姉と弟


 弟の徹が小説を書いている。
 大学ノートに向かっているのを目撃したとき最初日記の類かもしれないと思ったが、口から擬音を発しノリノリで鉛筆を動かす様子から小説にちがいないと当たりをつけた。
 その体は六畳間にあれど、頭の中は別の世界に行ってしまっているのだろう。はたまた頭の中が別世界なのか、日記でそんな体たらくになるはずがなく、やはり小説執筆によるトリップ状態で間違いない。
 十分後、現実に帰還した徹は、千恵美に見られていることにようやく気づき、鉛筆を持つ手を止めて、姉にだけは知られたくなかったという顔をした。徹がそんな切なそうな表情をする理由を千恵美は心得ていた。
 千恵美は人の間違いを指摘したり理屈に合わないことを糾弾したりするのが常で、そのせいで友だちもほとんどいないものだから、その被害は家族に集中し、母は亡くなっていて父は仕事で家にいないことが多いため、徹に及ぶことが多かった。というか徹しか対象がいなかった。
 その上、そのことに何の呵責も感じてはいない。
「なに、その嫌そうな顔は?」
「…………」
「お姉さまの美しさに見とれちゃった? 十年以上一緒いるのにまだ慣れない?」
 そう言っても許されるほど、少なくとも女を見た目でしか判断しないようなノータリンどもは許してしまうほど、千恵美の顔は美しい。色白で胸は小ぶりだがスタイルだってよく手足はすらりと長かった。
 高校入学当初、クラスメイトの多くが千恵美に興味を持ち、そのうちの何人かが近寄ってきた。
 だが、辛辣な言葉を浴びせるものだから、この花は美しいが棘がある、しかもかなり鋭いという認識がすぐさまクラス中に広がり、夏休みを待たずして遠巻きに眺められるだけで用事でもなければ話しかけられることは皆無となった。
 もちろんクラス以外にも人間が存在する限り、千恵美に接近してくる者はいたが路上でのナンパなら当然のごとく罵詈雑言で撃退され、校内では友人知人から忠告を受けて諦めたなら幸運で、その手の親切を受けられなかったため声をかけることになった被害者は、鋭すぎる棘の噂を広める伝達者の一人となり、いつしか千恵美の敬遠されっぷりは確固としたものになった。その人を寄せ付けない壁はより高くより厚く、オートマグのマグナム弾でもはねつけられるほどのものになっていた。まさに鉄壁。
 さらに、時は夜、場所はリビング、夕飯は姉の手作りとなれば徹に逃げ場などあるはずがなかった。ゴハン抜きは腹が減るに決まっていたし、ただでさえ徹は大食いなわけだし、家事をやってくれる姉への感謝は必須であるという常識ぐらいは備えていた。そういう教育を姉から受けてきた。常識。これは大事だ、と千恵美は常々思っていたし弟に対し熱烈に語ってもいた。
「今すぐそれを見せなさい」
「でも……ご飯が冷めちゃうし」
「冷めようが冷めまいが、作ったのはあたし。あたしの勝手よ。温かいうちに食べてほしいなんてわがままなことは言わないわ」
 徹は渋々大学ノートを千恵美に手渡した。
 その文章は鉛筆を使って横書きで書かれていた。お世辞にも綺麗な字とは言えなかったが、こんな愉快な創作物を放り出す手はない。
「人に見せるんだからパソコンで清書してプリンターでプリントアウトしなさい。でもパソコンには触っちゃダメ、プリンターにも触るな。わかった?」
 早口でまくし立てる千恵美の無理難題に、徹は口を半開きにしただけで一言も発することはできなかった。千恵美は弟がパソコンに触れることを禁止していた。禁止を破ればどんな罰が降るか決まってはいなかったが、どんな罰でもあり得ると想像させるほどの仕打ちを千恵美は徹に施していた過去がある。
 とにかく小説だ。
 タイトルがあれば真っ先にタイトルに文句をつけたにちがいないが、そんなものはなく、いきなり地の文で始まっていて、まず一つ目の文章が引っかかった。
「その国には、国をひとつ滅ぼせるだけの力を持った一人の戦士がいた」
 姉に自分の小説を読み上げられて徹の顔はこわばった。その事実を愉快な気分で認識しつつ、千恵美は評論した。
「おかしいよね、この文章。どう考えてもおかしい。国を一人で滅ぼせる戦士がいるなんて常軌を逸しているわ」
「おかしくないよ。その戦士はすごく強いんだ!」
 自分の書いた小説、そのキャラクターに対する思い入れもあってか、いつもは頭の上がらない姉に対して徹は真っ向から反論した。
「この戦士って王様?」
「一介の兵士だよ。一兵卒。普段は怠け者で、幼なじみの女の子にも頭が上がらないんだけど、でも本気になるとめちゃくちゃ強いんだ。すごく強いんだ」
「よくその兵士は下っ端に甘んじてるわね。もしあたしがその戦士だったら、その力を使って王様になるけどな。そして恐怖政治をしくのよ。何その顔は? ああ反乱が起こってあたしが殺されないか心配してるのね? でも大丈夫。誰もかなやしないんだから。何せ一国を滅ぼせるのよ。まあ、でもいちいち手を煩わされるのはごめんだから反逆者の一族郎党は皆殺しね。これで滅多に逆らおうなんて思う奴は出てこないでしょ。たまに出てくる分には楽しいと思うのよね。何が退屈かって刺激のない生活ほど退屈なものはないわ」「か、彼はそんなことしないよ。そんなひどいこと」
「ひどい? あたしのプランのどこがひどいって言うの? 力があればみんなすることよ」「しないよ」
 決然とした顔で断言する徹を見ながら、こいつ全然人間というものをわかっていないと千恵美は思いつつ、徹自身がそういう人間なのだとしたら、自分が絶対的な力を持っていても悪用しない人間なのだとしたら、それはいいことだから良しとしようと結論づけた。 だが、一般的に言って、普通の人間は絶対的な権力を持てば乱用する。歴史がそれを証明していた。現在の政治家や金持ちがそれをしないのは、少なくともメディアを見ている限りそこまでひどいことをしているように見えないのは、民衆を敵に回したら厄介だと思って自制しているからであり、そもそも連中は絶対的な権力を持っているわけではないからだ。
「その彼には力があるのよね? なんでそれを有効利用しないの?」
「やる気がないんだ。いろいろなことに対して」
「でも命令を聞く一兵卒より王様の方が楽できると思うけど」
「……そんなことを考えるのも面倒くさいんだ。彼は」
「王様にはならないとして、いくらなんでも下っ端っていうのはおかしくない? 騎士団長とか兵団長とか役職ぐらいありそうなものだわ」
「いくら強くても現場を指揮できるようなタイプじゃないんだ。強いだけで組織をまとめることはできないからね。陸上部の顧問が自分の教える生徒よりも足が速い必要はないでしょ」
 この意見には心底感心した。
 なかなか考えているようだ。千恵美に突っ込まれてその場で答えている印象もあったが、考えて答えが出るのならそれが長考した結果であろうと即興であろうと評価すべきだろう。 弟に対して千恵美はあくまで上から目線だが、意外な頭の回転の良さを見せる弟の成長ぶりを喜びさえした。その喜びは千恵美の中で、弟の成長がほぼ百%姉である自分の日頃の行いの賜物だという自画自賛に帰結した。それに、力を乱用してはいけないという考えは常識的で、非常に健全だ。
 機嫌がよくなり、少し手を緩めてやることにした。
「でも、一国を滅ぼせるほど強いんだよね? 具体的には何人までの相手なら大丈夫なの? 一口に国と言っても抱える兵士の数は違うと思うし、その熟練度にも差があるはずよ」「相手がどんなにいても負けない。小国はもちろん、大国にだって負けない。強いんだ。すごく」
「ちょっと待って……」
「……なに?」
「その国、軍隊いらなくないかしら? その戦士がいれば足りるわよね。そうなれば軍事費が大幅に削れて国が潤うわ。他の兵士は解雇しましょう」
「それはダメだよ」
「なに? 徹は膨張主義者なの? それとも兵器マニアで戦闘機買って喜んでるどっかのバカ総理と同じなの? 点検修理費も込みで六十兆円なのよ? その金があれば独裁国家の幹部買収して簡単に民主化できるわよ。金の使い方下手すぎない?」
「そ、そのバカのことは知らないけど、他の国が攻めてくるから、いくら強くても一カ所にいるしかできないし、移動時間を考えると守りきれない。核兵器と一緒だよ。核兵器で相手の国を滅ぼせたとしても、イコールそれが自分の国を守ることにはならない。核兵器が相手の国に届く前に攻められたら自分の国にだって被害が出ちゃうだろ」
「そんな強い戦士が自国にいるってわかっていて、その国の王様はよく他の国に侵攻しようとしないわね」
「王様は知らないんだ。ううん、王様だけじゃなくて誰も、彼がそんなに強いなんて知らないんだ」
「じゃあなんでその戦士がどの国も滅ぼせるほど強いってわかるの? もう滅ぼしたことあるの?」
「ない、けど」
「じゃあ、この文章は嘘ってことね。証明されてもいないことを書いてある。ほら吹き小説だわ」
「……神の視点で書いてるから、客観的に見てそれぐらい強いってことなんだ」
「その戦士はどうやって戦うの?」
「刀一本だよ」
 徹の声に少し弱気がにじみ出ているが、千恵美は追撃の手を緩めない。勝負所と見たら一気呵成に攻める。スポーツだろうが会話だろうが勝つためのコツは同じだ。
「西洋風ファンタジーじゃないの? まだ一行しか読んでないけど、ぱっと見カタカナが多い気がするわ」
「そうだけど……刀を使ったっていいでだろっ?」
 妙なところで語尾を荒げた。徹なりのこだわりがあるらしい。言葉遣いの悪さをネタにねちねちと一時間ぐらい説教してやろうかと思ったが、今日は、それはなしだ。ちゃんと徹の小説を主題に据えて話し合っていくことにした。
「刀って三人ぐらいしか殺せないらしいわよ」
「知ってるよ。敵からも武器を奪って戦うんだ」
「敵が刀を持ってなかったら?」
「……殴り殺す」
「物騒ね……。それはまあいいとしてあげる」
「……ありがとう」
 散々意地悪な詰め方をした姉に思わず礼を言ってしまう弟をかわいく思わないわけでもない。しかし千恵美の攻撃性は常に優しさを上回っていた。本人比一・三倍ほどだが、他者から見れば十倍では足りないだろう。
「根本的な疑問なんだけど、それって人間?」
「え?」
「一人で刀一本を使って一国を滅ぼせる力を持った戦士って、人間なの?」
「……人間だよ」
「ちょっと腹筋やってみて」
「なんで?」
「いいからやれ」
 千恵美はフォームの要求を厳しくした。両手は頭の後ろに組み、腰を痛めないように膝は九十度に曲げた状態で、完全に上半身を持ち上げる。反動を使ってはいけない。引きこもりで運動不足の徹にはきついはずだ。それがわかっていてやらせるあたり千恵美はドSだが、自分がドSであることはわかっているので始末が悪い、ということもわかっているのである意味始末をつけていた。
「大変?」
 腹筋をやっている徹に聞いた。
「……うん」
 早くも徹の息は上がっていた。
「今、身を持って体験してるわよね。人は疲労する。体力には限界がある。一国の兵士を相手に刀を振るい続けられるわけがない。できたとしたらそいつは人間じゃない。なんでそんなことできると思ったの?」
「で、きるような気がしたから」
「できないのよ、人間には、そんなこと。わかった?」
「……うん」
 徹が素直に答えたので、腹筋をやめさせて、夕食を始めた。とはいえ、徹が最後まで音を上げず腹筋をやり続けたのが気に入らなかった。妙に根性がある。かわいくない。お姉ちゃんごめーん、と泣いて謝るべきじゃないか弟というのは、と千恵美は姉としての願望を自覚し妄想した。やはり弟とはそうあるべきだ。
「すっかり冷めちゃったわね。あんたの小説があまりにもツッコミどころが多いからよ。結局、一行しか読めなかったわ」
「……冷めてもおいしいよ、ゴハン
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ。本当にそう思ってることはわかってるけど。なにせあたしが作ったんだから」
「うん」
「いい、徹? あたしが世界のすべてなのよ。あたしの言うことだけを信じなさい」
「……うん」
「よろしい」
 後は黙って二人で夕食を続けた。
 テレビもラジオもない静かな時間が流れる。

 

「その小説。どう思う。心理カウンセラーとして?」
 千恵美唯一の友人、九歳年上の南山加奈子は心理カウンセラーで、千恵美の通う高校のスクールカウンセラーをやっていた。
 眼鏡をかけた知的美人で、ショートカットにボーイッシュな服装は清潔感をこれでもかと強調していたが、千恵美は友人が潔癖性でないことを知っていた。
 ゴキブリを素手で捕まえて外に逃がすのだ、この女は。汚い不潔だ。そのことを指摘したら、害虫だから殺せっていうこと? 握りつぶしたらひどいことになるじゃない、と言われて、その想像図にさすがの千恵美も五分ほど黙り込んでしまったのは苦い思い出だ。 加奈子のことを考えるとき、真っ先に思い浮かぶのがそのエピソードなので、千恵美はこの友人のことをあまり考えないようにしていた。
「どうって? 中学生辺りが好きそうな設定じゃない。主人公がめちゃくちゃ強いって。特に今そういうの流行よね。異世界モノって呼ばれてるけど。現実の世界では無理に感じられる設定でも異世界だったらあり得る。荒唐無稽な願望を実現させるには異世界の方がリアリティを与えやすいからね。自分が主人公になって自由気ままにやるって現代日本じゃ限度があるし、想像するのも難しい。でも異世界ならご都合主義も不自然に感じにくい。現実の世界にその設定を当てはめてみればいかに無理があってもね。千恵美はそういうの読む?」
「あんまり。正直、あたしびっくりしてるわ。大人だと思っていた友人が子ども向けの物語にこれほど詳しいオタクだったなんて。あたしは全然読まないけど、加奈子は読むの?」「読むよ。スクールカウンセラーだから子どもたちが好きそうな物語に精通してるって言い訳もできるけどね。あ、誤解させたようだから言っておくけど、中学生だけじゃなく大人にもそういう作品は売れてるからね。勉強になるわよ。いかに現代日本人が労せずに人から尊敬されてちやほやされたがっているかがあからさまにわかって。そもそもファンタジーは癒しの物語だけど、ここまでやるかって凄みを感じるね。弟君の場合は、戦士の強さを表現するのに一国を滅ぼすってすごく表現としてはわかりやすいじゃない? 一国っていうのは確かに抽象的過ぎるけどね。滅ぼすっていうのが相手国の人間を皆殺しにすることなのか町を焦土と化すことなのか興味は尽きないけど、至極まっとうな中学生だと思うけどな。強いて病名を上げるとしたら中二病かしら?」
「無理やりつけなくていいから、病名」
「やっぱり千恵美でも弟が引きこもりは心配?」
「心配でしょ、普通。なんか勘違いしてるみたいだけどあたしはいたって普通の人間よ」「カウンセリングの際クラスメイト全員に名前を挙げられるような人間が普通?」
 目の前の心理カウンセラーはいきなり職業倫理に抵触した。
守秘義務は?」
「友人として話してるの」
「でもアウトよね」
「あなたが漏らせばね。あなたみたいに魅力的な子に友だちが私一人しかいないっていうのも普通じゃないんじゃないかしら」
 加奈子のエンジンがかかってきているのを感じつつ、いまいち自分の気分が乗らないのは話題の発端が徹だからだろうと千恵美は自己分析していた。そのため返しも切れ味が悪い。
スクールカウンセラーとしてあるまじき発言だと思うけど」
「友だちだから、ついね」
「まあ、いいけど。寛大なあたしは許すわ」
「ねえ、徹君と会って話してみようか? ただでいいわ」
「やめとく。そういう段階じゃないから」
「あら、そういうのは早い方がいいのよ」
「逆よ。もう手遅れってこと」
「いつから?」
「生まれたときからかな」
「何その意味深に響きながら、なんの意味もない台詞?」
 千恵美と加奈子は言葉という刃物で斬り合いする仲だったが、今日は互いに相手が受けられる、避けられるところに斬り込んでいた。血は流れていない。
「とにかくカウンセリングは必要ないってこと」
 加奈子とじゃれている場合ではない。千恵美はそんな思いに急かされて、ファミレスを後にし、我が家のアパートに向かうと、読書している徹に声をかけ今読んでいる本の感想を五百文字以外で述べよと命令した。

 

 あれから千恵美は徹の小説をすべて読んだ。
 声に出して、徹の前で。
 一文ごとに徹と討論しそのたびに小説は厚みを増した。四百字詰め原稿用紙で七十枚ほどだった短編が、二百枚を超える中編になっていた。大学ノート内で加筆していくのは大変だったので、というかほぼ不可能だったので途中からノートパソコンでの作業となった。千恵美はパソコン入力を行いながら、なんて弟思いの姉なんだろう、と自らの行いに酔いしれた。
 きっとこんなに弟思いのお姉ちゃんは世界中捜したってどこにもいない。だって何の見返りも求めていないんだもの、と自らの正当性を少々先回りしすぎだったが、それが本心であると心の内で語ってみたりするのは、いくら口が悪いといっても十六歳の少女らしいといえばらしかった。
 それでできあがった小説だが、新人賞に応募したら半年後入選の知らせが届き、加奈子に会った際にそのことを千恵美は自分の手柄として伝えた。
「あたしのおかげってわけ」
 何の疑いもなく、その台詞は口から出た。心から、何のやましいこともなく、何の欺瞞もなく、出た。それが千恵美であり、それこそが千恵美だった。
「弟君は編集の人に会ったの?」
「あたしが会ったわ」
「弟君の手柄を横取りとはね」
「横取りしたわけじゃない。代わりに受け取っただけよ」
「屈折してるのよねえ。もしかして義理の弟?」
 心理カウンセラーのくせに発想が安易だ。
「父と母の子よ。あたしも弟も。そうでなければ――」
「なに?」
「――別に」
 そうでなければ、弟が両親の子でなければ、母が自殺することはなかっただろう。
「なにその意味深そうでいて何の意味もない台詞?」
「文脈から読み取ってよ」
「私はエスパーか?」
「カウンセラーって心が読めるんじゃないの?」
「ほら、そうやってからかう。いい性格してる。まったく読めないねあなたは」
「あたし以外だったら?」
「やっぱり読めない。推測はできるけどね」
「じゃあ何の意味があるの、カウンセラーって職業?」
「相手の鏡になってあげるってことかしらね」
「なにその気が効いていそうで、意味がない台詞。おっと、加奈子のお株を奪っちゃったわね。なに鏡って? じゃあ鏡を見れば済むじゃない」
「見た目じゃなく会話で――」
「独白を録音して聞き直せばいいかしら?」
「えーと、鏡プラスアルファな役目を果たせるわけよ。カウンセラーは」
 本音で語っているようだったので、千恵美も意地悪はせずに、友人の言葉を文字通り受け取った上でそれなりの想像力を働かせてみた。
「鏡……ずいぶん謙虚なのね」
「まあね」
「謙虚と言うよりは責任を放棄しているように思えるわ」
「カウンセラーとクライアントは対等だから、カウンセラーの方がクライアントより上ってことはないのよ。生じる責任もそれ相応と考えてもらいたいな。それと、カウンセリングっていうのは一応相手が本音を話している前提で行うものだから、相手はいくらでも嘘がつける。それが大きな弱点かしらね」
 何かを見通そうとでもいうかのように加奈子はじっと千恵美を見た。
「あたしは嘘なんかついてないわ」
「そんなこと一言も言ってないけど」
「文脈から察したのよ」
「気になることはある」
「なに?」
「弟君のことよ」
「中学でもスクールカウンセラーやってるんでしょ。中二病の臨床実験はその子たちで我慢したら?」
「あなたの弟だものさぞイケメンでしょうね?」
「あたしの足元にも及ばないわ。あたしが天としたら奴は地底ね」
「ひどい例え」
「事実よ」
「ちなみに私は?」
「地上の人」
「正直に答えられたみたいで腹が立つ……。この際地上人のことは置いておきましょう。まるであなたが天使で、弟君が悪魔みたい」
「あたしが天使じゃ控えめだわ。女神ね」
「その女神に彼氏ができないのはなぜかしら?」
「神と地上人の恋愛はタブーだから? それより問題なのは地上人同士の恋愛はタブーでないにもかかわらず、カウンセラーで慈愛に満ちたあなたに未だかつて彼氏がいたことないことだわ」
「……最近はみんな遅いのよ。晩婚化が進んでるもの。知らなかった?」
「みんなそうなら、あなたが傷ついたりしないでしょ。なんで涙目になってるの? 痛いところを突いてしまったかしら」
「……そうまで私を攻撃するのは、私は全然傷ついてないけど、念のため。弟君の話題にこちらから触れたから?」
 図星だった。これ以上弟に興味を持たせてはいけない。新人賞の話を持ち出したのは失敗だった。そもそも半年前に小説のことを相談したのが悪かった。あのとき千恵美は弱気になっていたのだ。そのせいで他者と徹の話題を共有したいと思ってしまった。後悔しても遅いが、弱気になるなんてまだまだ覚悟が足りない。
 これからは遠巻きで自分の様子をうかがっているクラスメイトにも積極的に不快になる言動を心がけなければならないだろう。そうでもしなければ世界と自分、他者と自分の境界が曖昧になり、秋月千恵美という人間は周囲と同調する存在になり、それは結果的に徹のためにならない。
 千恵美は家に帰るとテレビのリモコンを手に取り毒舌芸人が司会をやっているバラエティ番組をつけた。直後、エンターテイメントを見習ってどうすると自分に突っ込みを入れてからチャンネルをニュースに変えた。

 

 久しぶりに徹のわがままが始まった。
「お姉ちゃん。僕外に出たいよ」
「無理ね。あんな小説しか書けないようじゃダメね。人間が書けてない。常識知らず。外に出たって恥をかくだけよ」
 徹は何か言いたそうにしている。
「なによ。言いたいことがあるなら言いなさいよ。あたしはいつもそうしてるわ」
「……お姉ちゃんは悪い人なの?」
「なんで? こんな弟思いなのに?」
「行動が伴わなければ心の中でどんなことを考えていようと、意味がないと思うんだ。少なくとも本人以外は、他人にとっては」
「あたしの行動はあなたにとって、悪いものだと感じられるってこと?」
「そうだよ。悪いことだと思う」
「口が回るようになったわね。行動が伴わなければって、どこでそんなこと覚えたの?」 本を買い与えすぎたようだ。千恵美も読んでいない本のどれかを読み、そこから借用した考えだろう。
 あたしのどこが悪いのだろうと千恵美は不思議に思った。悪いわけがない。母が死に、父は仕事でずっといなくて仕送りはあるけど、金と一緒に愛情が口座に振り込まれるわけではない。
 研究者というのは職場で仕事をしているのではなく頭の中でしているから休みがないのだと母はよく言っていた。
 なら家に帰ってくればいいと思うのだが、どうせ頭の中で働いているのなら体ぐらいはって思ったものだが、頭の中の考えを家では再現できないので実験設備の整っている職場にいる必要があるのだそうだ。
 千恵美だって学校にいようと家にいようと徹のことばかり考えてしまうのは中に詰まっているものが違うというだけで頭の構造自体は父親に似てしまったからかもしれない。でも詰まってるものは自分の方が上等だと納得しているというか自己弁護は完了していて、そのため自己嫌悪に陥ることはなかった。父と自分は決定的に違う人間であり、千恵美は徹底的にそう思い込もうとしていた。
 徹と自分はたった二人の家族と言っても過言ではない。この美しい自分と二人きりだなんて徹は幸せ者だ。
 こんなふうに姉に思われて。
 他の人にはどう見えるにせよ。
 見せはしないが。
 みんなはあたしを見ていればいい、と千恵美は思うのだ。

 

 心理カウンセラーは攻撃を強めてきた。
 加奈子は最近会えば徹の話題ばかり振ってくる。いい加減苛々するので、これ以上喋らせないようにするためにおごってくれたらいくらでも付き合うと言ったら構わないと答えるものだから、千恵美は受けて立つことにした。
 結果、パフェを五杯も食べるはめになった。食べても太らない体質を自負していたが、その胃はパフェを五杯も食べることを想定して作られているわけではなかったので、当然腹を壊して会話中何度かトイレに駆け込むはめになった。
 体重が増えなければ何を食べてもいいというのは、日本の異常なダイエット文化が生み出した悪しき幻想で、健康を担保するものではなく、むしろ健康とは真逆な方向に人々を走らせる悪魔の思想だ。そのことを千恵美はファミレスのソファとトイレとの往復を何度か繰り返す間に学んだ。
「弟君を独占したいわけだ」
「違う」
「歪んだ愛情表現ね」
「そんなんじゃないわ」
「それとも弟君は他人と共有できないものなのか。私はしたいと思ってるんだけど、困難を伴うわね。お姉ちゃんがこれじゃあ」
「徹はモノじゃない」
「存在してないものね」
「……どういう意味?」
 観念論をふっかけてきたのかと思ったが、そうではないらしい。
「私はこの学区の中学校のスクールカウンセラーもやっていて、生徒の名簿を見ることができる。義務教育なんだからいくら不登校でも弟君の名前は載ってるはず。秋月徹。でも、名簿にそんな名前はなかった。あなたの弟君は存在しない。あなたの心の中にしか」
 そうきたか、と思っただけで、反論は口にしなかった。
 黙っていることを肯定と受け取ったのか、千恵美の心の闇を指摘した次に加奈子がしたのは心配だった。
「あなた、大丈夫なの?」
「自分だけの問題だったらこんなに悩まないわ」
「自覚して。あなたの弟君はあなたの中にしか存在しない」
「カウンセラーとして、その結論は性急すぎるんじゃない?」
「確かに乱暴なやり方なのは認める。でも私はあなたを友人と思ってるから、その友情に免じてこの荒療治を許してちょうだい」
 薄々感じていたが、加奈子には友人がたくさんいるのだろう。千恵美と同じようにカウンセリングを受けたのをきっかけに友人になった者がたくさん。加奈子と友情の定義について深く激しく議論してみたくなったが、それは自分が真に求めているものではない。
 それに言葉の定義をいくら定めたところで現実が変わるわけではない。変わるのかもしれないがどうやったって変わらない現象というものはあり、そのうちのいくつかが千恵美を縛り痛めつけてくるのはわかりきっていた。
 誰だって多かれ少なかれそういった厄介なものと向き合っていかなければならないのが人生だ。逃れられるなら逃れればいいが、逃れられない場合もあるし、逃れたくない立ち向かいたいという場合だって当然ある。
 加奈子が自分の返答を待っていたので、千恵美は持論を展開した。
「許す理由がないと思うけど。何かにつけて許していく必要もないし、許さなかったからといってこの関係を断ち切ろうとも思わない。あなたがカウンセラー失格だってことは前から知っていたし、あたしの方だって無礼な口を利いていたわけだし、なんの問題もないわ。ただ、あたしとあなたの違いは、あたしは許されなくても構わないと思ってるけど、あなたの口調だとあなたの方は許されるべきだと思ってるみたいってこと」
 ひどいことを言っているとわかっていて、それでも許されたいと思うのは甘えだ。
 甘えが通用するような世界には生きていない。
 千恵美の信念とは逆に、加奈子はあくまで許しを請う口調で訴える。
「聡明なあなたなら、私のやっていることが正しいってすぐに理解するはずよ。警察がもうすぐあなたのアパートに向かうことになると思う。ネットですごい盛り上がってるから」 理解不能な発言だ。
 警察が来る?
 一瞬、加奈子が呼んだのかと思ったが、千恵美が自分の中の他人格である徹を辛辣に扱っていると推測した上で、それを止めるべく警察を介入させるなんてバカなことをするはずがなかった。それこそ多重人格なんて警察ではなく精神科医や心理カウンセラーの領分だ。
「そんなことで警察にあなたの心をかき回されるよりはよっぽどいいと思ったの」
 千恵美は自分の加奈子に対する評価を恥じた。
 思っていたよりもずっと友人思いだった。カウンセラーとしては三流だが、友人としてはそう悪くない。
「あなたの中の弟君が助けを求めた。そこから出たいって。それであなたの意識がない間にネットに書き込みを行ったんだと思う。名前、住所、姉による仕打ち」
 領収書には手をつけずに置いていった。最初からその約束だ。
 千恵美は家に急いだ。パソコンを弟に触らせないように、手の届かないところに置いていた。スマホは常に千恵美が持っていたから、徹がネット環境を利用できるはずがなかった。それなのにどうやってネットを利用したのか。
 家のドアを開ける。
 パソコンはチェストの中、そこは徹の手の届かない場所。ちゃんと入っている。それ以外に通信機器はない。
 千恵美は六畳間の徹に近づいた。
 その体の背後に回り込むと、柱に繋がれていた足首の鎖を見た。切れていた。力ずくで引きちぎった痕だ。恐らく数日前には切れていたのだろう。もしかしたらずっと前からかもしれない。それを千恵美には見えないように隠していた。
「そうか……もう切れてたんだ」
 不思議と怒りはなく、少し体の力が抜けた。
 徹だっていつまでも子どもではないということだ。
 サーカスの子象は子どもの頃から鎖に繋がれて育ち引っ張ってもちぎれないと思い知り、大人になって引きちぎる力がついてからも逃げようとは思わなくなる。
 でも、徹は人間だ。自分の可能性に気づく機会は何度もあっただろう。弟の知力と腕力を侮っていたことを悔いた。徹がゆっくりと千恵美を振り返った。
拉致監禁って言うんだよ、お姉ちゃん」
「拉致ではないわ。徹はあたしの弟なんだから」
「でも家から出そうとしなかった。監禁だよ」
「あたしは――」
 徹に言うべき言葉が思いつかなかった。挑戦的な目、そこに憎しみを見なかったのはあくまで千恵美の願望で実際は自分のことを憎んでいるのだろうかと知りたくなった。ひどい姉だったのだろうか。不意に、猛烈に許しを請いたくなるが、千恵美の信念がそれを許さなかった。
「警察の者です」
 突如玄関のドア越しに声をかけられたが、千恵美は何の決断もできないでいた。頭の中がとっちらかっていた。とりあえず選択肢が二つあることには思い至った。ドアを開けて応対するか、居留守を使うか。
 鍵を閉めていなかったのが災いし、警官がドアを開ける音がしたので千恵美は玄関に出ていくしかなかった。
 制服姿の警官は中肉中背で凶暴な感じはしなかったが、目つきは険しかった。だが、千恵美を目にした途端、意表を衝かれた顔になった。無理もない、と千恵美は思った。こんな美少女にお目にかかることなんて滅多にないことだ。相手が充分に自分を堪能できるようにしばらく黙って立っていることにした。背後にもう一人警官がいて、そいつに背中を突かれて、正面の警官がようやく質問した。
「……あなたは?」
「この家の娘です。父は仕事で留守にしているので、出直してきてもらえますか?」
「徹君はいますか?」
「……徹って誰ですか?」
「あなたの弟さんのはずなんですが……」
 自信がなくなったようだ。こんな美少女が嘘を言うはずがない、と警官の顔には書かれていた。もう一押しで帰るだろうと踏んだ。
「あたしに弟なんていませんけど」
「ネットに書き込みがあったそうなんです。監禁されているから助けてくれって。こちらとしてはイタズラと思っているのですが、一応室内を確認させてもらっていいですか?」「いもしない人を捜すなんてばかげてると思いませんか?」
「そうですけど、通報を受けてこうしてやってきた手前、何も確認せずに帰るわけには――」
「こんなことしている間があったら、こそ泥の一人でも捕まえたらどうですか? どうせあたしの美しさに目がくらんで、部屋の中を物色しようと思ってるんじゃないですか。だから税金泥棒なんて言われるんです。さっさと帰ってください。あなたたちに見せるような下着はありません」
 怯んだ警官だが、背後に控えていた警官が前に出て、肩幅が異様に広いそいつは靴を脱ぐと勝手に上がってきた。千恵美は腕をつかんだが振り払われた。おい、と中肉中背の警官が同僚の暴挙に異議を唱えたが、千恵美に気遣わしげな目を向けながらも靴を脱いで自らも部屋に上がった。
 2LDK。
 ひとつは千恵美の部屋で、もうひとつは徹の部屋だ。
 警官は違わず弟の部屋に向かった。
 千恵美もそちらに急いだ。
 警官二人は見た。
 その巨大なものを。
 六畳の部屋一杯に広がる徹は、あぐらをかいて座った状態でも頭が天井に着きそうなほどだから前屈みになって背中を丸め、いかにも窮屈そうだ。全身黒い体毛に覆われていて熊みたいだが、シルエットは紛うかたなき人間。
 コウモリの羽に似たものを背中から生やしている。
 化け物、警官たちは口々につぶやいた。目にしたものを直感的に形容するというのはよほどセンスのある人間でないと陳腐になる。案の定目の前の警官二人も醜態をさらしたわけだが、ごく一般的な人間であることも間違いなく、その市民代表みたいな二人に徹を化け物呼ばわりされて千恵美は平静でいられなかった。
 千恵美は怒鳴った。自分でも驚くほど語彙が貧弱だ。ただ、喚いた。出て行け、弟だ、放っておいてくれ。
 徹は何もしていないのに。
 人間なのに。
 そう見えないだけで。
 怒鳴っているうちに千恵美は幾分冷静さを取り戻した。
 世界を敵に回したっていい。
 クラスメイトに嫌われてそのための準備もした。
 徹を守れるのは自分しかいない。我が子を実験動物としか思っていない父親など当てにするだけ無駄だ。現実に耐えられなくなって自ら命を絶った母親などなおのことだ。
 千恵美は六畳間から出てこようとする徹を両手で押しとどめようとした。しかし前進する徹に弾き飛ばされ床に転がった。
「助けて助けて」
 徹は逃げる警官に追いすがり、玄関のところで追いついた。何しろ一歩が大きい。その圧迫感はかなりのもので、逃げても追いつかれると警官たちが思ったのも無理はない。足が止まったのは恐怖のためか迎え撃とうというなけなしの勇気か。
「来るな!」
 最初に部屋に上がり込んだ肩幅の広い方の警官が叫ぶと、もう片方の千恵美の色香にやられた中肉中背の警官は呪縛から解かれたように玄関の外に走り出た。開け広げられたドアに向かって、あ、おい、と肩幅の広い警官はその裏切り行為に声を上げたが、しっかりとその手は拳銃を構えていた。
 徹と警官、両者の間に、千恵美は割って入った。
 銃声。
 弾は千恵美の腹にめり込んだ。後ろに傾きかけた体、立て直そうとして前のめりになり、空足を踏み警官に覆い被さるようになった。腰が抜けていたのか警官の方も足に力が入っていなくて二人はそのまま玄関の外、通路によろめき出て、手すりをつかんだ手にも力が入らなかったのか共に階段から転げ落ちた。
 痛みはほとんどなかった。撃たれた腹を除いては。警官がクッションになったため千恵美が意識を失うことはなかった。警官の方も大の字になって伸びていたが息はある。
 騒ぎを聞きつけて人が集まってきた。
 徹がアパートの通路に出てきた。青空、日の光の下、改めて外で見ると、姉である千恵美の目にもその姿は異様に映った。
 皆が悪意ある言葉を、あるいは正直な感想を口にした。
 気持ち悪い。
 自らの感覚を言葉にするだけでなく行動に移す者もいた。
 吐いたのだ。一人ではなく数人が。辺りに酸っぱい臭いが漂い始めた。
 弟は、弟は――
 皆から指をさされて責め立てられていた。
 あいつが警官を殺した。誰かが言った。気絶しているだけだと思うが、徹を相手にしてその程度で済むと考えるより、人生を失ったと考える方が自然に思えたのだろう。
 バットを持って殴りかかってきたヤンキーを徹は手で払いのけた。ヤンキーは手すりを超えて地面に落ちた。血が飛び散り地面に華が咲いた。さらなる悲鳴が上がった。
 通報を受けて機動隊がやってきた。銃を構える。盾を構える。マイクで交渉したりはしなかった。そもそも言葉が通じるとは思っていなかった。警告もせずに一方的に攻撃を加えた。
 徹は地面に飛び降りると、機動隊員をなぎ倒した。銃弾をいくら浴びようと怯まなかった。堅い毛で覆われた徹の皮膚に弾丸が届くことはなかった。例え届いたとしても今度は皮膚が防御し、さらにその下の筋肉も並はずれているから、人間には太刀打ちできない。警察の武器は人間を想定したもので、徹には効果を及ぼさなかった。
 弟がやってきた日のことを思い出す。
 出産のため入院した母が戻ってきた三年後だった。
 それが人間とは最初判別できなかった。
 一緒に出迎えた母もそれがかつて自分が生んだものとはわからなかったらしい。出産の際母は全身麻酔をしていて、生まれてきた赤ん坊の姿を一度も目にしていなかったからだ。初の母子の対面、母がトイレに駆け込むと、しばらくしてから嗚咽が漏れてきたのを千恵美ははっきりと覚えていた。
 だから、警官、野次馬連中に徹が人間に見えなかったとしても不思議なことはない。ごく普通の反応なのだろう。
 姉である千恵美だって徹と初対面の時は、何だこれ? と思ったものだ。とても同じ人間とは思えなかった。
 ただ、よく見れば、一個の人間としてみれば、その知的な黒い瞳に、あらゆる感情が映り込むのがわかるはずなのだ。絶対に頭がいいし、情緒も豊かな優しい男の子なのだ。中二病かもしれないがただそれだけなのだ。
 やめて。千恵美は叫んだ。
 弟は化け物なんかじゃない。人とは違う見た目で生まれてきただけ。
「化け物」
 人々は口々に罵った。千恵美の声はかき消された。人を殺した、と徹を恐れた。助けを求めていただけの徹に拳銃を発砲したのは、先に手を出したのは警官だ。
 なのになぜ。

 

「なぜあなたはあんな化け物をかくまっていたんですか?」
 女のインタビュアーが千恵美に質問した。
 スーツ姿だがその生地のところどころに焦げ目があり、化粧もしておらず、お世辞にも立派な身なりとは言えなかった。それなのに本人が毅然とした態度でジャーナリスト然としているのは滑稽で、みすぼらしくて説得力が感じられなかった。結局ある種の形式というか様式が千恵美の頭の中にあって、女はそれから外れているということだろう。
「彼はあたしの弟です」
 だからといってかくまう理由にはならない、とインタビュアーは言った。もっと周りの人、社会のことを考えるべきだった、と。さも当然のように語った。彼女は怒りを抑えられないようで肩を震わせていた。
 その態度に千恵美は自分を否定されたと感じた。
 加奈子は間違った推測をしていたが、暗喩的な意味で正しいことを言っていたのだ。
 徹は千恵子の心の一部だった。
 自らの良心の預け先。
 それが徹だった。
 だからこそどんな辛辣な言葉だって他人に浴びせることができた。
 今となってはそうとしか思えない。
「あたしは十年間。弟と一緒に暮らしてきました」
 だからなんだ? とインタビュアーの目は言っていた。そんなもの多くの人が死ぬ運命になった言い訳としてはちっとも足りない。もう少しまともなことを言ってみろ、そうでなければ今すぐわたしたちはおまえを殺すぞ。明らかな殺気があった。
 これは実戦だと思った。学校でクラスで路上でやっていたのは訓練だったがついに千恵美は実戦に放り込まれたのだ。
 待ち望んではいなかったが、いつかこうなる予感はあった。
「弟はあたしのことをお姉ちゃんと呼んでいました。一緒にゲームをしたり、同じマンガを読んで感想を言い合ったり、たまには喧嘩もしました。あたしが負けることはなかったし、例え泣いたってあたしに暴力を振るうことなんて絶対になかった」
 無数の非難がましい目が千恵美に注がれていた。それらは騒ぎに巻き込まれ家族を失った者、同僚を亡くした警官、徹は化け物で千恵子はその手助けをしていると考える者、これだけ周りから嫌われているのだから何をしても許されるだろうと考えている下卑た男たちで構成されていた。
 ここは中学校の体育館で避難所のひとつだ。もし徹が就学していたら体育の授業で使っていたはずの場所だ。
 徹に対する自衛隊の攻撃によって戦火は広がる一方で、その戦いに終わりは見えないが、徹は百万の軍隊にだって勝利するだろう。
 でも、優しかった徹がなぜ世界を敵に回したのか。
 そっとティーシャツの上から腹を押さえた。その下には一ヶ月前治療を施されたときの包帯が巻かれていた。

 


喰霊-零- DJCD1

 

参加中です↓

人気ブログランキングへ