進撃の巨人の最終回を見た。
切ない。
これは切ない話だ
世界の秘密とか人類の未来とかどうでもいい。
これはエレンとミカサの物語だ。
正直設定のほとんどを忘れていて、話自体は五十%ぐらいしか理解できなかったが、それだけはわかった。久しぶりに見たせいでそういうふうにしか理解できなかったと言われればそれまでだが。
ただ作者は間違いなく、読者が切なくなるように作っている。
ミカサがエレンの首を取りに行く前のシーンで、エレンとミカサ二人が戦いを逃れて田舎で穏やかな暮らしをしているというのがあった。
あれはエレンが可能性を探ったうちの一つだろうと俺は理解してるんだが、違っていても構わないので話を続ける。
ところで人はどうして切なくなるのか?
可能性を失うからだ。
ミカサとエレンが穏やかな暮らしを送るというささやかだが、とても素敵な時間。それをミカサとエレンは失った。二人を応援している俺たち視聴者もそれを失った。エレンは、仲間を世界を島のみんなを救うため、その可能性を手放した。
なぜ老人が亡くなったニュースよりも子供が亡くなったニュースの方が辛いのか、切ないのか。同じ生命なのに、なぜ? 老人のほうが子供よりも長く生きていてその死を悲しむ人の数も多いはずなのに。
それは子供のほうが老人より可能性に満ちているからだ。野球選手になるかもしれない。政治家になるかもしれない。作家になるかもしれない……。まだまだ経験していないことはたくさんある。いろいろな可能性がある。
それを失う。
きつい。
切ない。
切なさとは可能性を失った結果、生まれるものだ。
進撃の巨人の最終回を見ることでそのことを改めて思い出した。